石田切込正宗

日本刀を鍛錬する過程において、除ききれなかった不純物や、ちょっとしたミスが、疵(きず)となって現れることがある。致命的なのは、焼刃に入った亀裂で、ここから折れる恐れがある。刃や地に現れるシワのような疵は、そこから曲がる可能性がある。鍛錬中に空気が入り、抜けきらずに水ぶくれのように残ってしまったものは美観をそこなう。

こうした疵は、日本刀の美術品としての価値を下げる要素となるが、疵であって疵とされないものもある。「矢疵(やきず)」と「切込疵(きりこみきず)」である。これらは斬撃に耐えた戦歴 を物語る記念すべき疵であり、武人にも、現代の愛刀家にも、勇ましい武士(もののふ)の証として尊重・珍重されている。
この切込疵にちなんでのちに異名を付けられたのが、「石田切込正宗」である。

この日本刀は相州(そうしゅう)の名工・正宗の作である。物打(ものうち…物を斬る力点にあたる、12cmぐらいの部分)と鍔(つば)に近い部分の二か所に切込疵がある。豊臣政権における 五奉行の一人・石田三成の愛刀だったが、この庇は、三成のもとに渡るよりもはるか以前に、どこかの戦場で受けたものであろう。秀吉没後、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)ら、秀吉子飼いの七将に襲撃された三成は、徳川家康に助けを求めた。そして、保護してもらう代わりに五奉行を辞職して、領地の近江佐和山(おうみさわやま)に帰ることになった。このとき、佐和山までの道を警護して付き添ったのが、結城秀康(ゆうきひでやす)である。家康の次男として生まれ、秀吉の養子となった人物である。 秀康の厚意に応え、三成は愛刀正宗(石田切込正宗)を、秀康に贈ったという。 現在は、重要文化財に指定され、東京国立博物館が所蔵している。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です